ラディカルな転倒

一般企業で働いています

研修の大部分を終えた雑感。

自分はなんでこの会社が好きなんだろうと考えていた。ある対象への好意には色々な種類があるが、自分の会社に対する好意はある種の「無条件の愛」に近いものかもしれない(大袈裟かもしれないけれど)。会社に対して些細な嫌なことや「それは違うでしょ」みたいな部分があったとしても、許せる。もっと言えば「この会社がそう言ってるなら正しいんだろう」と素直に思える。そして、僕の会社に対するそうした態度は、内定通知をいただいた瞬間から研修が終わった現在まで変わっていない。よくある「入社後のGAPはありますか」という就活における定番逆質問に「全くありません」と胸を張って言える自信がある。これって結構凄いことじゃないか。まだ配属前だという事実は一旦置いておいて、僕にとってこの会社は印象と中身がほとんど一致していた。

では、なんで僕はこの会社が好きなんだろう。どこに惹かれるんだろう。端的に言えば、僕はこの会社のどこか厨二病なところが大好きだ。この会社には、独特の思想や哲学がある。そして社員がそれを良い意味で盲信し、意思決定の根拠にしている。僕は、それを「ロックでいいな」と思いながら見つめている。この会社の社員は、歴史の中で醸成された固有の価値観に基づいて自分たちが向かうべき方向を徹底的に考え抜き、信じた道を力強く進んでいる。この一連の力学(ムーブメント)自体が、俺は好きなんだ。そう、この会社はまるで迷える少年のよう。カスパー・ダーヴィト・フリードリヒ《雲海の上の旅人》を想起させる。俺も、夢中で何かに向かって走る少年にならなければならない。それが俺の強みなんだから。

研修中、自分を見失ってしまった時期があった。周囲から褒められ、天狗になり、人の悪口を言い、飲み会での瞬間的な快楽にばかり身を委ねてしまっていた。振り返ると、他者へのリスペクトが圧倒的に足りていなかった。それもこれも、全ては仕事に夢中になれていなかったことに起因する。確かに、バランスをとることは長い社会人生活を送っていく上で重要であり、仕事への過度な没入は破滅に繋がる。しかし同時に、俺は何かに傾倒していないと弱さを露呈してしまう。少年性を失いかけたとしても、必ずやってくる次のチャンスへの準備期間と捉え、自分の尻を叩いてあげないといけない。研修の大部分を終えた今、自戒としてここに刻んでおく。

会話においては(会話を楽しくするには)「宙に浮く」ことが大切である。真面目になりすぎず、I’m from China マインドを忘れない。Terraceでのスタンスを思い出して。飄々と。IDさんのように。

人間関係(1対1)の良し悪しはその大部分がコミュニケーションの相性の良さで決まるだろう。俺の中で、相性が良いと感じるコミュニケーションは以下の要素を含んでいる。

その会話の中身において

  • メタ的である
    • 例えば、お互いの性格をお互いに対象化(括弧に入れ)し、複雑な志向性を言語化し、お互いに分析し合うこと
    • 微妙なニュアンスや微妙な面白さを言語化すること
    • 情報の交換(地上)に終始しない
    • 抽象度が高い
  •  特定の文脈を共有している
    • 共感が生じる
    • アイデンティティが似通っていたり、共通の志向性があると単純に共感が生じて楽しい
  •  好奇心が刺激される
    • 自分が今まで知らなかったことや新しいアイデアが手に入る
    • 会話相手の内面が屈折していたり稀有な性格だったりすると、深掘りしたくなるので楽しい

その会話の雰囲気において

  • 気を遣わない
    • 話していて茶番にならない
    • 自分の悪い部分を含めて全てを曝け出せる
  • 適度なジョークを通して宙に浮ける
    • I’m from China マインドでいられる

「コミュニケーションの相性が合う」を言語化するのは難しいが、上記のいずれかの要素を満たしていればひとまず相性は良いと言えるだろう(そうでなくても、当然話していて楽しい人はたくさんいる)。まあ、結局酒が入れば無条件に楽しいんだけど。

解脱しましょう。スタンプラリーをやめて。今まで、僕はスタンプラリーをしてきた。それは穴を埋めるため。承認欲求を獲得し、自分の人生を意味あるもので敷き詰めようとするため。でもそれって、キリがない。想像を超える体験を得ることはできない。刹那的な快楽に過ぎない。メタ快は得られない(もっとも、スタンプを獲得しようとする志向性そのものはメタ的である)。コンテンツでしかない。スタンプラリーとは、「意味」を取りこぼさないようにしようとする態度のこと。一度何かそこに「意味」があると感じたら、もうそれを逃すことが苦痛で仕方なくなってしまう。MYの言う通り、そうしたメタ的なスタンプは社会的に形成されたもの。内発的動機で動いていたと思ったら、実は外発的に形成されたスタンプを俺は追い求めていた。自分の内側から湧いて出てきたと錯覚しがちだが、社会的に当該の行為に価値があると思わされているものばっかり。コンテンツをやめて、没入しよう。そこで初めて僕は生を始めることができる。

最後のスタンプの回収を自らの意思でやめた。これをスタンプラリーの終焉の象徴として「本当にやりたいこと」を希求する人間に変わる。その最後のスタンプは、きっとこれからの人生の過程で非メタ的に達成されると期待する。だから、そのスタンプは残しておく。そうすることで、学生時代から社会人への連続性が保たれる。

「これがあの時残しておいたスタンプか」ってなったら面白い。発展可能なスタンプとして後回しにしておく。忘れた頃に、押すのではなく押されるだろう。没入している間に、熟成して、茶番的な交感から真の交感(=インタラクション, ロマンティシズム)へ転換するに違いない(メタ的スタンプから、内発的、非コンテンツ的スタンプへ)。(つまりこのスタンプはスタンプでありながら内発的であるという矛盾を孕んだスタンプである)。真の交感は、メタい会話を4時間続けた後の「入れ子になってよく分からなくなっちゃったね」で始まる。このスタンプはこっそりとっておく。10年後、あるいは20年後の僕へ。

もっと多くの人が典型的なアイデアや型にはまった行動に終始するのではなく、自分独自のアイデア、解釈、表現を自由気ままにできるようになったら面白いなと。そうした人間の可能性みたいなものを発散させるためには、世の中がもうちょっとシームレスにならないといけない。シームとは繋ぎ目であり、何かをする際のハードル、あるいは非productiveな時間とも言える。

例えば、何か新しいものを作ろうと思ったとき、作るためのソフトウェアのインストールに3日かかったら、それは大きなシームで、創造的な時間の奪取だよね。みんながそれぞれ好きなことをやろうと思ったときの、手続きとか、準備とか、待ち時間とか、そういうつまらない時間をなるべくなくしてあげるみたいなことをしたい。

そうすれば、みんなの面白い時間を最大化できて、もっとクリエイティブなものが世の中に増える。そんな世界を実現することができれば、俺自身もその面白さを享受できる。

俺は何か発明をしてみたい。新しいアイデアとか、新しい仕組み、新しいサービス、新しい概念とか。なんでもいい。それらを、遠くのもの同士のつなぎ合わせで実現したい。天動説と地動説とか、トヨタ生産方式とか、所有からシェアとか、線形から循環型とか、持ち運べるコンピュータとか、縦割りからアメーバとか。誰も思いつかなかったような自分だけの視点、あるいは組み合わせで世界をあっと言わせたい。「ロックさ」ってそういうことだと思う。

経済力とか、ステータスとか、そういうのも大事だけど、相対的なものを追い求めるのはしんどいよね。だから、面白いか面白くないかという、絶対的なものに身を委ねる方が自分に合ってるのかなと。

労働についての自分なりの整理。非常にドライな尺度で。

  • 労働=自分のアウトプット(≠インプット)によって生み出される企業にとっての価値と、賃金との交換
  • 自分の賃金は企業にとってのインプット(=コスト)
    • インプット以上のアウトプットを出さないと企業の利益には貢献できない
  • はたまた、自分にとってのインプットそれ自体は企業のキャッシュに直結しない
  • 自分にとってのインプットは賃金以上のアウトプットを生み出すための「仕組み」に用いられなければならない

    • 赤字社員は企業にとっては本来的には必要ない。いつ解雇されてもおかしくないのだが「正社員」という枠組みのお陰でそうはならない。
    • 逆に言えば、正社員でいる以上、賃金以上のアウトプットを生み出さなくても雇用され続ける。したがって、生存だけを考えれば付加価値を生み出す動機は存在しない。
    • じゃあ、なんで付加価値を生み出すの?

    その方が面白いから

    →自社株を保有した場合: 自分が生み出した付加価値が当期純利益として自分に帰属することになるから[利害の一致]

今年は、今までの人生でも、とびっきり早く時間が過ぎた1年だった。そして、これまでの人生の悲しみ、苦しさ、楽しさ、嬉しさ、弱さ、面白さをまとめて反復したような1年だった。

不思議なことに、カレンダーで年初の出来事を振り返ると、遥か遠い昔のことのように思える。2023年1月の出来事が、中学生の頃の出来事と同じくらいの遠さにあるような気がする。過去は、実際の時間的距離にかかわらず、一緒くたに「過去」のパッケージでひとくくりにされてしまうのだろう。

1-3月の俺は、就活をしていた。なんとなく特徴のあるBtoBの会社を受けて、お祈りメールの受信を繰り返していた。自分の社会的存在価値のなさを嘆き、精神的不安定さからメンタルクリニックに行ったほど。脆弱だ。ちょうど、高校生の頃に感じていた精神的落ち込みを反復した。

MSという会社に出会い、MN太郎の動画を見て、この会社に強く行きたいと思うようになった。その強い意志から、ゴリ押しでMSに受かった。Kはこちらからお祈り申し上げた。MSの尖った感じと少しrigidな感じは、俺に合っている。このとき、僕はこの会社に没入していた。受験勉強やゴルフの没入に近いものだ。

6月から、バイトを始めた。コミュニティの素晴らしさを感じた。みんないい人ばかり。快活なのだ。屈折してる人はほとんどいない。不足に積極的に入るのは、承認欲求から。「人のため」は実は「自分のため」。純粋に「人のため」に何かができる余裕や強靭さが俺にはまたない。脆弱だ。しかし、ここでは中学時代に経験した「ともだち」の楽しさを反復した。

9月に、インドネシアに行った。没入のない享楽は面白くないことを知った。言語が通じることの尊さを感じた。

10月、英語とその他諸々の勉強を始めた。しかし1ヶ月くらい経つと刹那的な快楽を求めるようになった。継続性のなさを反復した。残りの学生生活の充足を求めて、11月や12月、知らないバーに行ったり飲み会に頻繁に参加するようになった。たくさんのお金を消費して快楽を求めた。これは、ある種のスタンプラリー的行為。「やってて楽しいことやれ」の精神には反しているが、今の俺にはそれを乗り越えられる強靭さがない。脆弱だ。

そんなこんなで1年の終わりに俺は今またインドネシアに来ている。

脆弱さとは、穴である。付け入る隙がありまくるのだ。穴が拡大して、メンタルクリニックに行った。穴を埋めようと、不足に入った。穴を埋めるチャンスが今後ないと思い、沢山飲んだ。

僕は、脆弱だ。すぐに脆さを露呈する。高校以降の人生を俯瞰したときに、ひたすらにこの自分の「弱さ」を感じてきた。なぜ弱いのか。それは自分の存在意義を獲得できていないから。だから、自分の「生きる意味」や「社会的存在意義」を過剰に求めてしまう。意味のある出来事で人生を敷き詰めたいし「ここにいてもいいよ」を欲する。

弱さは、そこから来ている。飲み会をなぜ僕は希求するのか。それは、アルコールを摂取することで存在意義改造から抜け出すことができ(不健康な没入)、かつ仲間と同じ時間を共有することで「社会的存在意義」を獲得しようとしているから。

俺は自分の軸がない。享楽や欲望に弱い。インスタントな快楽で穴を埋めようとする。そう、短期的な穴埋めに奔走し、自分を貫く長期的で堅固な軸がない。短期的な快楽の享受に終始している。人生に連続性がない。

メタった状態で存在意義モードから脱出しなければならない。短期的にではなく長期的に。そうした強さが欲しい。人生の目的は自分の穴をひたすらに埋めていくことではない。埋めても埋めても、穴は出てきてしまう。

穴を自ら必死に埋めようとするのではなく、勝手に「埋まる」状態を作らなければならない。毎度のように、埋まっては穴が空き、穴が空いては埋めるの繰り返しでは、サステナブルではない。意図しなくても勝手に埋まる環境を構築し、自動化しなければならない。「気づいたらずっと埋まっている」状態が理想。

サステナブルに穴が埋まりやすい環境を構築する手段として、どんなことが考えられるだろう。

1つ挙げるとすれば、それは他者や世界の穴を僕が埋めてあげることだろう。人間は、自分の穴が埋まっていないと他者の穴を埋めようとしない。できるだけ穴のない社会を構築することで、回り回って自分に何か返って来やすい環境を作ることができる。そのためには、自分が優秀にならなければならない。仕事ができるとは、最終的には他者の気持ちが想像できるようになること。英語も、経済も、時事も、工場も、物流も、ITも、人間が作り出したもの。勉強とは、突き詰めればより多くの人の気持ちが分かるようになることと同義。勉強すれば、人の穴を埋めやすくなって、巡り巡って自分の穴が埋まりやすい世界になっていく。自分の観測範囲内の世界を豊かにするためには、自分が優秀にならなければならない。優秀になることは手段だ。

〈勉強→他者の穴埋め→埋まりやすい環境構築〉

環境構築は、色んな所に種を撒いておくイメージ。考え方をまるっと変えないといけない。これまでの繰り返しはもう嫌だね。

学生時代、僕はインスタントな穴埋めに終始していた。これからは埋めようとしない。埋まるような世界にする。底上げによって穴の深さが浅くなっていく感覚が欲しい。最初は我慢が必要かもしれない。でもそれが自然にできるようになれば、いいじゃんね。今までは、インスタントであると同時に、極めて利己的だった。周囲を、自分の承認の道具として扱ってきた。しかし、道具視は長期的な環境構築に繋がらない。なぜなら、道具とは替えの効く存在だから。インスタントに取っ替え引っ替えし、穴を埋めては穴が空き、また別の道具で穴を埋めることを繰り返してきた。環境は、持続可能でなければならない。俺周囲の環境に水をやることで、サステナブルなスモールワールドを形成していく。

俺はどこか精神が屈折してる人に対して過度に興味を持ったり、好きになったりしてしまう。ここでの屈折は拗らせとも言い換えられるかもしれない。つまりシンプルに考えればいいことを無理にひん曲げて複雑に考えたり、変にメタ認知し過ぎたりするみたいな。逆張りとか、過剰なプライドとか、低すぎる自己肯定感とか、めちゃくちゃ悲観的とか、自分を一切開示しないとか、選民思想が強すぎるとか、そういうのは全部自分の中ではある種の拗らせとか屈折でひとくくりにしてしまっている。まあ要するに、難儀な人が好きなのかもしれない。俺は根本的に人間に興味があって、他の人が何考えてるか無駄に知りたくなってしまう性格。屈折してる人を見ると無駄に興味を持ってしまうんだよね。俺と仲良くなる奴、難儀なやつばっかり。